島商株式会社

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日本橋小網町 今昔

江戸の河岸と水運

江戸時代から大正の大震災まで、日本橋川沿いの河岸には白壁の土蔵が立ち並び、美しい景観が見られました。俗に"小網町河岸三十六蔵"といわれ、広重の江戸名所百景のうち、"鎧の渡し小網町"に描かれています。白壁を背景にした渡し舟や猪牙(ちょき)舟、茶舟が見られます。絵の手前左には、荷を運ぶ五大力船(帆船)の舳先(へさき)が大きく突出しています。手前の傘をさす粋な帯と浴衣の女性は、渡し舟を待っている商家の娘でしょうか。

その景観について、永井荷風は「私はかかる風景の中日本橋を背にして江戸橋の上より菱形をなした広い水の片側には荒布(あらめ)橋につづいて思案橋、片側には鎧(よろい)橋を見る眺望を、その沿岸の商家倉庫並び橋頭の繁華雑踏と合わせて、東京市中の掘割の中にて最も偉大なる壮観を呈する処となす」と書いています(「日和下駄」講談社文芸文庫)。荷風が大正3年の夏からおよそ一年にわたる東京市中散歩の記事をまとめた隋筆集ですから、関東大震災(大正12年)で白壁の土蔵が崩れるまでは、広重が描いたような風景であったのでしょう。

天下の城下町江戸の建設は、家康の江戸入り後、秀忠・家光・家綱の四代、70年にわたるものでした。慶長8年(1604)、家康が二万石以上の大名に命じて、禄高千石につき一人の人夫(千石夫)を集め、神田山(駿河台)を切り崩し、水路を埋め残し、豊島州崎(現在の浜町から新橋辺り)を埋め立て、市街地の造成をしました。更に、江戸城普請の一環として日比谷の入江に直接流れ込んでいた平川を道三堀(現在の呉服橋から大手門に至る辺り)に繋ぎ換え、このうち、道三堀の西半分と外濠が埋め立てられて、残った水路が現在の日本橋川となりました。荒布橋と思案橋(戦後は小網橋)はもはや残っていませんが、かっては渡し船が行き来していた"鎧の渡し"(俗に一文渡)は、明治5年に木橋が架けられ、明治21年に鉄橋となり、現在の「鎧橋」は昭和32年に旧橋の老朽化に伴って架け替えられものです。

野田宇太郎は「東京文学散歩・下町」(小山書店、昭和33年刊)のなかで、荒布橋のあった場所にたたずみ、明治の情景を回想しています。「ここに立つと右に江戸橋が架かり、左のぐっと弓なりに曲がった下流には鎧橋が見える。明治21年架橋のアーチ型の鎧橋だった鎧橋の影はすでに五年前に失われてし まって、今は新しい鎧橋となっているが、濁った水の流れだけを眺めていると、やはりなつかしい過去の時代の思い出が漂っているようである。水の都!という言葉が私の心に浮かぶのは、この荒布橋跡やもう一つ川下の東堀留川の入り口に架かっていた思案橋跡の水際に佇むときでる。(中略)実際この遍りの水景は、江戸時代からの人々が愛して来たゆたかな情調は大切に保存しながら、ベネチヤあたりの水の都の特色を採り入れて、明治時代の良識ある都市計画者が慎重に設計した場所でもあった」。

思案橋の名称については「昔時遊客が、吉原に遊ばんか、堺町に往かんかと思案せし處なればこの名あり」(日本橋区史)と書かれていますが、親父がこの橋まで来て、さて今日は吉原に行こうか、それとも芝居でも見ようかと"思案した"ので付けられたとも聞いています。ついでに、思案橋に続く堀留に「親父橋」がありました。吉原を開いた庄司甚右衛門が架けた橋で、"親父"と呼ばれて親しまれていたので、親父橋と命名されたと言われます(池田弥三郎「日本橋私記」)。人形町界隈には元和3年(1617)幕府公認の遊郭と芝居町が設定されました。この辺りは葦(よし)や茅(かや)の生い茂る沼地で、当初は「葦原」といいましたが、後にめでたい文字をあて「吉原」としたようです。吉原遊郭は明暦の大火を期に浅草日本堤に移転しましましたが、芝居町(葺屋町、堺町)には歌舞伎小屋の「中村座」「市村座」や浄瑠璃の「薩摩座」、人形芝居の「結城座」などがありました。江戸末期には、ほかに娯楽が少なかったので、「一町内一席」と言われたほどの「寄席」があり、大正5年の調べによると、日本橋区内に14ヶ所あったことが記録されています。

江戸城が築城された慶長・寛永の頃、小網町は江戸湊の内港であり、日本橋川の「河口洲」の小さな中島にすぎませんでした。江戸城にもっとも近接した浅草金龍山(浅草寺)下の大川から芝浦までの漁場は、小網町白魚役という漁民が御菜白魚上納を行う漁場として指定されていました。慶長6年(1602)に家康が下総国東金に鷹狩に出かける途上、小網町の漁師が網をひいて将軍の観覧に供したところ「肴(さかな)御用」を命ぜられ、白魚を献上する特権を与えられたといいます。大正6年の「報知新聞」に連載された「江戸の懐古」(田中優子監修、講談社学術文庫)には「これより夜々十隻ばかりの船を出し、四ツ手網を用いて、小魚を取り、朝にいたれば、佃島に漕ぎ帰り、その途中、日本橋小網町二丁目なる思案橋の西詰めに網を干すを例とす」と書かれています。佃島は家康が摂津国佃村の漁師34人を江戸へ移住させ、正保2年(1645)に砂洲を埋め立てて住まわせ、佃島と称したのが始まりです。そのとき、神職・平岡権大夫好次が住吉社(現・田蓑神社)の分霊を勧請して住吉神社を創建しました。佃島の漁師は、毎夜、江戸城外堀内の銭瓶(ぜにがめ)橋の番人を勤める傍ら、その橋下において網猟を許されたといいます。

小網町は寛永年間(1624~1644)には"番匠(はんぢゃう)町"と称し、それ以前は"入江ヶ岡"と呼ばれ、後に小網稲荷に因んで「小網町」と改めたようです。(ここで活きの良い魚介類が水揚げされ、網干し場があったことから「小網町」の名がついたという説もあります)。小網稲荷神社は江戸七福神詣の一社で文正元年(1466)に創建され、大田道灌が崇敬したといわれます。堀のそばで舟にかかわりが深いところから、宝船の社(やしろ)として知られ、弁財天と福禄寿が祀られています。この辺りは大名旗本屋敷ばかりで、福井藩松平氏の屋敷跡には銀杏(いちょう)稲荷神社(銀杏八幡宮)が祀られています。それ故か、小網町二三丁目と安藤対馬守邸の間を「稲荷(とうかん)堀」と呼び、江戸の真中の地でありながら、白昼若き婦女子が一人で通行すると下郎などが戯れえることがあるので、廻り道をするくらい淋しい土地であったようです(鹿島萬兵衛「江戸の夕栄え」中公文庫)。

日本橋川の両岸は江戸商業の中心地でした。小網町一丁目を「末広河岸」、二丁目の思案橋側を「貝杓子店」又は日本橋川に沿った河岸を「鎧河岸」とも呼ばれていました。江戸の初期には日本橋を中心に京橋、本所、深川地域に多数の川(堀)が縦横に廻らされ、水運によって各地の物資が河岸で陸揚げされました。享保期(1716~1736)以降になると、本船町、伊勢町、小網町、小舟町、八間町、堀留町、堀江町及び堀江六間町の八町には米問屋が集まって「河岸八町」と呼ばれていました。近世初期から河川水運で運ばれた年貢米のうち、「御城米」は高瀬舟などに積まれたまま隅田川に出て、浅草御蔵の前に着岸され、札差が武士に代わって米の受け取りや運搬・売却代行をしました。札差は預かった米から手数料を引いて米と現金を武士に渡し、残った米は小売の米屋に売るほか、大名や旗本・御家人に貸金をして莫大な利益を得たといいます。また、各地の旗本領からの年貢米は、江戸に入ると艀(はしけ)船に積み替えられ旗本屋敷の蔵まで直接運ばれていました。

江戸に到着した諸国の千石船(弁財船)は品川・佃島沖辺りに停泊し、そこで荷を茶舟に移して大川(隅田川)から日本橋川へと運び込まれ、河岸で荷揚げされました。日本橋から江戸橋までの北側(本船町、按針町、本小田原町)は、関東大震災後に築地に移転するまで「魚河岸」でした。日本橋といえば「一日に三千両のおちどころ」(川柳)、朝は魚河岸、昼は芝居町、夜は吉原と言われ、江戸の景況を左右するほど繁昌していました。日本橋川は今日の流通センターのような役割を果たしていたといえましょう。

利根川水運と関東地回り経済

江戸の水運は、渡良瀬川、鬼怒川など幾筋もの川を集めて銚子で太平洋に注ぐ利根川水系と、秩父山地に発して、川越の新河岸と合流する隅田川を分流させ、東京湾に注ぐ荒川水系の二つが主なものでした。とくにそれまで南へ流れて江戸湊に注いでいた渡良瀬川を下利根川(当時の常盤川)に合流させて太平洋へ出る水脈をつくり、その途中で「関宿」と江戸川を結んで、行徳から小名木川を通って隅田川に繋げたことは、米や醤油、銚子の魚、とくに干鰯(ほしか)を大量に江戸へ輸送するのに重要な役割を果たしました。銚子から川舟によって利根川を上り、関宿から江戸川を経て舟堀川(現在の新川)と小名木川を通って隅田川に至る航路を「内川廻し」と呼びました。

鮮魚は銚子から猪牙(ちょき)舟に積み、三丁艪でとばして利根川を上り、木下(きおろし)から陸路、木下街道を鎌ヶ谷経由で馬の背につけて行徳まで運び、再び舟に積んで小名木川から隅田川に出て日本橋魚市場へ至るという順路で運びました。東廻り航路で銚子へ来る仙台米は、銚子で高瀬舟に積みかえ、関宿・江戸川・小名木川を経て、深川仙台掘の仙台藩の蔵屋敷へ送られました。この行程では3日かかったそうです。(川田順造「江戸=東京の下町から」岩波書店)。

内川廻しは当初、東北方面からの廻米の運搬が主要な目的でしたが、河岸周辺の地場産業が発展するに伴い、河岸から地場の特産物が積み込まれるようになり、銚子からは鮮魚や醤油、利根川下流の野尻や高田からは干鰯(ほしか)・〆粕・魚油、佐倉や小見川からは酒、野田からは醤油、行徳からは塩が大量に江戸へ運ばれました。内川廻しの江戸終着場所は小名木川が流れる江東地域で、大川と交わるあたりに深川大工町があり、ここで奥川筋からの船の荷受、保管、艀(はしけ)への積み替えが行われ、日本橋川の問屋へと運ばれました。この地域には奥川筋からの物資を荷揚げする河岸が散在し、深川は主に米、材木、干鰯を貯蔵していました。干鰯は上方方面の木綿産地で必要とされる貴重な肥料で金肥(きんぴ)と呼ばれ、内川廻しが整備されたことで、銚子方面からの戻り荷の大半を占めていたようです。清洲橋通り沿いの白河に、かって大量の干鰯を貯蔵した干鰯場の跡に石碑が建てられています(難波匡甫「江戸東京を支えた舟運の道」)。

「江戸名所図会」に描かれている「中川番所」は、河川交通路に設けられた川船改めの関所で、江戸へ出入りする人と物資の査検を行いました。正保4年(1647)に小名木川の隅田川口に深川番所が設置されましたが、明暦の火事(1657)で市街地化が進んで機能しなくなり、寛文元年(1661)に小名木村(江東区大島)へ移して「中川番所」と称したようです。

江戸で消費される日用消費物資の繰綿(くりわた)・木綿・醤油・酒・油などは加工品が多く、主に上方(畿内)から送られてくる"下り物"でしたが、米・炭・薪(まき)・味噌・魚油・塩などあまり技術を要さない商品は、江戸周辺や関東地域の"地廻り物"で維持されていました。

関東一帯の塩は、幕府の保護のもとに下総の行徳塩に依存していました。幕府は新川と小名木川を開削して、江戸と下総を結ぶ水運を開発し、寛永9年(1632)には小網町三丁目の行徳河岸から下総行徳行きの茶舟「行徳船」を運航させました。これにより、武蔵国からは物資のみならず、商人や旅人が頻繁に往来するようになり、船宿が栄えました。行徳船は長渡船又は番船と呼ばれましたが、特権の代償として将軍の日光社参や鹿狩りのときなどの御用を勤めたため「番船」と呼ばれたようです。使用された船は主に24人乗りの茶船で、寛永年間には62隻が運航しています。

その後、江戸の人口が増えるにつれて塩の需要が満たされなくなり、寛永末から瀬戸内産の十州塩が「塩廻船(弁才船)」によって江戸へ運ばれ、大川から南北新堀町河岸(今の箱崎辺り)の下り塩問屋に直送されるようになりました。承応年間(1652~1655)に江戸に入った塩廻船は250~300艘、積載量は約50万俵でしたが、明治初年には3万艘、積載総量210万俵に増えています。この大量の塩を四軒の下り塩問屋(松本屋、渡辺屋、長嶋屋、秋田屋)が仕切り、21軒の仲買が配給していました(廣山尭道「塩の日本史」雄山閣出版)。

下り塩問屋には醤油問屋を兼ねているものがあり、江戸入りの下り醤油が地廻りものになると、銚子から醤油を仕入れるようになり、空船に塩を積んで銚子へ帰すという「奥川筋船積問屋」が生まれました。奥川筋とは、武蔵・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・常陸(ひたち)・下総(しもうさ)などの、内陸奥地の川を指します。

江戸へ諸荷物を積んできた高瀬舟の多くは、荷を下ろした後、「帰り荷」に再び関東・奥州・信越の各地へ行く荷物を運びました。この積荷の世話をしたのが奥川筋船積問屋で、小網町を中心に小船町、伊勢町、堀江町、箱崎町など、日本橋から隅田川に架かる永代橋までの地域にあり、塩・油・米・酒・醤油などの食品問屋が、船積問屋や船宿(奥川艀宿)を兼業しているところが多かったようです。船積問屋は自身では一艘の船も持たず、船賃の一割を「積口銭」として受取り、積船が江戸を出帆したあと、「関宿」の関所までの間で、もし破船・難船などがあれば、諸事世話をする責任を持っていました。奥川筋船積問屋がいつ頃から成立したかは明らかではありませんが、寛政10年(1798)の訴状の中で、寛文3年(1663)と享保13年(1728)の将軍日光社参の時、船積御用を勤めたと書かれているので、寛文期にはすでに存在していたと思われます。その後、元文元年(1736)に積問屋仲間議定書が作られ、そこにはすでに35軒の船積問屋が認められます。それぞれ送り先の地域が定められており、ほぼ奥川筋を網羅しているようです(川名 登「河岸(かし)」法政大学出版局)。

江戸という大消費地だけに、日本橋には醤油酢問屋が多く、文政4年(1821)の統計によると、江戸に入る醤油の数量は年間125万樽でしたが、その93%強が関東産でした。鮨・蕎麦・鰻・天麩羅などの屋台が始まったのは、銚子や野田の濃い口醤油が醸造されてからのことです。濃い口醤油は、関西の淡口醤油に比べて香りや色の濃さが特徴で、魚の生臭さを消すのに役立っていたといわれます。銚子と小網町との間に多様な物資の交流が始まり、銚子からは醤油のほか、大麦、味噌、酒粕が、小網町からは木綿、塩、乾物などのほか、明樽、提灯、蝋燭、紙、筆などの荒物・小間物(日用雑貨品)が、戻り船荷として運ばれるようになりました。また、小網町一丁目の思案橋側からは上総(かずさ)国登戸曾我野行きが、江戸橋土手からは木更津船が発着していました。「木更津船」は江戸と木更津を結ぶ船運の呼称で、主に五大力船が房総から米穀や薪炭を運んでいました。

小網町河岸の光景を「このほか荒川上流、上州、武州行きの川船も皆小網町河岸白壁の土蔵数町の間軒を並べ、川にはこの多くの船々の荷積み荷卸しの光景を江戸橋、荒布橋上より眺めて、始めて江戸見物に来りし田舎人の目を驚かすは無理ならず。当時江戸名所の一ツなりし」と鹿島萬兵衛が「江戸の夕栄」(大正11年刊)で述べています。

江戸時代の初期には、油も下り油が圧倒的でした。元和6年(1620)に大坂と江戸を結ぶ民営の定期航路「菱垣廻船」が、正保年間(1644~48)には「樽廻船」が運航を始めます。万治3年(1660)に霊岸島に「油仲間寄合所」(東京油問屋市場の前身)が設立され、下り油の売買所が定められました。元禄7年(1694)には江戸十組問屋が組織され、水油問屋34名が河岸組として組み入れられます。次いで享保11年(1726)には、地廻り水油問屋31名が加わるようになり、関東地廻りの油が次第に増えていきます。水油とは菜種油のことで、米に次いで流通量が多かったのです。天明4年(1784)、幕府は地廻り・下り油の全てを小網町の問屋を通すよう義務付けています。油は菜種油と綿実油が主で、胡麻油・荏油も使われていましたが、灯火用の油の値段が高く、米の3~4倍ぐらいしたようなので、吉原のような賑やかで繁昌している場所でも、三流の女郎屋では魚油を使っており、真黒に燻った煙が上がっていたといいます。そのため芝居も日暮れ限りで、夜になれば江戸は真っ暗だったそうです(三田村蔦魚「江戸ッ子」中公文庫)。天保2年(1831)には江戸の年間需要量10万~11万樽のうち、地廻り油は30%を占めます。これには関東の綿作の発展や幕府による油菜作付けの奨励と菜種油の増産があったようです。

こうして、江戸時代の小網町をみると、小網町河岸が下りものと関東地廻りものの中継基地であると同時に、関東各地への物資の発進地でもあったことが分かります。今では往時の面影はありませんが、小網町河岸が江戸湊の内港として重要な役割を果たしていたことが分かります。

参考文献: 白石 孝「日本橋街並み商業史」慶応義塾大学出版会
白石 孝「日本橋街並み繁昌史」慶応義塾大学出版会
川名 登「河岸(かし)」法政大学出版局
難波匡甫「江戸東京を支えた舟運の路」法政大学出版局

参考:小網町には日用必需品や食品を扱う問屋が軒を並べていました。寛保沽券図(1741)によると、小網町一丁目:はみがき、釘鉄、下り傘、京御菓子、船具、紙、煙草、水油、藍玉、漁猟網、苧麻(ちょま),奥川筋船積問屋2軒、二丁目:茶、下り傘、鰹節・塩干肴、貝杓子・木杓子、竹皮、煙草、足袋・股引、鍋釜、もぐさ、線香、瀬戸物、水油仲買(3軒)、奥川筋船積問屋(8軒)、3丁目:鰯魚〆粕魚油、(2軒)、下り糠(ぬか)、塗物、釘鉄銅物、傘、貝杓子・絵馬・火打石、素麺、鍋釜、絵具染草、藍玉、線香、明樽、下り塩仲買、醤油酢(5軒)、水油問屋・仲買(5軒)、奥川筋船積問屋(10軒)(岩井良衛「江戸・町づくし稿」青蛙書房)。

(著者略歴)
 池田弥三郎
 鹿島萬兵衛
 川名 登
 難波匡甫
 川田順造
 廣山尭道

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